ご案内

Mは、一瞬Oちゃんが医師として、その腫傷マーカーの正常値が四○以下であるということはおろか、CA‐9というものが何であるかさえ本当は知らないのではないかと、疑いすらした。
それからおよそ一ヵ月、Oちゃんの家族も、私の夫のHも、Oちゃんの騨臓に異変が生じていることを知らなかった。一方事実上の告知を受けたOちゃんは、一体何を考えてそのひと月を過ごしたのだろう。
誰にもわからない真っ暗な深い穴が、ぽっかりとそこに空いてる。十三年前、一九八九年。
Mに限らず、医師という職業で一番辛いことは、身近な人を診なければならないことではなかろうか。私の夫は結婚するかしないかの時に、「僕は婦人科と小児科はわからないよ」といち早く宣言していた。
しかも例えば指が膿んだとか、本来外科にかかるべき病気であっても、自分で診るのを極力避けた。ほとんどの医師の、特に勤め医者の家族は「わが家は無医村」という話題で、意見の一致を承る。

主人が知らんぷりをするから子供が大変な事態になったとか、「そんなに具合が悪いなら、どこかいいお医者さんにかかれば」と、自分を蚊帳の外におくとか、案外に医者の家族は不便なものだ。それでも治ったという結果ならばよい。
家族の異常を見過ごして手遅れになったというのでは笑い話で収まらず、その心中を察すると傍から見てもまったく気の毒な話である。家族だけでなく、親しい人を診察して、果たして癌で、しかも進行して手もつけられないような場合は、悩承は一層深い。
ボート部の先輩で、同じ北里大学の産婦人科学のA教授、通称Aさんの癌を発見した時、Hは帰宅してテレビをつけたままぼんやりと焦点がさだまらない目で空間を見つめていた。正月には、いずれのボート部も初漕ぎを祝う慣わしがある。
Aさんは毎年、ご自分の創設した北里大学ボート部の初漕ぎに、監督をしていたHの車に乗りボート談義を交わしながら現役やOBの待つ相模湖へ向かうのを、恒例にしていた。あの日、めずらしくHが風邪を引き込んで熱を出した。
私は前日から用意していた祝いの酒を車のトランクに載せ、ひとりAさんの家へ行った。「鬼の震乱です。先生申し訳ないけど、今日はおひとりでいらっしゃってくださいませんか」と、告げる。
Aさんはめずらしく暗い顔で、
「そうか、Hも具合悪いのか。僕は秋ごろからずっと胃がもたれるようでね。酒が飲めねえんだよ」と言われた。
Hのベッドの足許に立って、私はAさんの言葉をそっくり伝えた。がぱっと布団をはねて起き上がったHは、「いつから酒が飲めないって」と、重ねて確かめた。
何よりも酒を愛し、酒も辞さないAさんが、飲めないのはおかしい。Hの頭の中に赤い「先生、胃にリンパ腫が見つかりました。しばらくおとなしく入院していただけますか。」

私とここにいる彼が担当させていただいて、注射で治療をいたしますのでと、内科の病棟に入った。
ランプが点滅しはじめた。翌月曜日の朝、出勤したHは、自分の外来から内科にAさんの胃の透視を頼んだ。
結果を待っていたHと、内科のO病院長、S助教授は、無口でフィルムを見る。消化器の、特に胃袋を専門としてきた三人には、説明の言葉は一言も要らない。
Aさんの胃の上部噴門部には、ポールマンV型(現在ではタイプ3の進行癌と表示されるだろう)という、とてつもなく大きな癌が見えたのである。続いて行われた内視鏡検査の胃カメラには、もっとはっきりと癌の病態が映し出された。
「外科のメスではどうしようもないほど、増殖してしまっている」と内科側も外科側も判断した。しかも超音波やCTなどの映像には、肝臓にも癌の影が見えていた。
外科医としてのHは、もう少し早ければ自分の手で兄貴と仰ぐ人の病巣を取り除けただろうにと、強く自分の唇を噛む。「今からムンテラ(患者に病状を説明すること)をします」Sは、カーテンの陰の丸い回転椅子に隠れるように座るHへそっと声をかけ、診察室にもうひとりの内科医とともに入っていただくことになります」少し高めのSの声が、カーテン越しにHの耳に届き心臓が高鳴った。

「はい、わかりました。どうぞよろしく」隅田川でのボートのコーチで鍛えた渋い声で、Aさんはあっさりと言った。
癌の告知はなされなかった。それ以後、Aさんは自分の病気に関する質問は一言もしなかった。
単なるリンパ腫を治す薬と説明されたものが制癌剤とわかっても、腹水が溜まって辛く、呼吸が苦しくなっても、「癌なら癌と言え」などというセリフは出さなかった。自ら多くの患者の信頼を勝ち得ている外科系の医師として、病体が何であるか承知しているはずなのに、すべてを腹の中に癌と一緒に抱え込み、江戸っ子らしく我慢に歯を食いしばった。
四月、病院の桜並木が、溢れんばかりの花をつけ紺碧の空におっとりと揺れているのを、九階の病室からも見ることができる。婦長は、Aさんをそっと抱えて窓際に起こした。
ベッドの上に片方の膝をついて、後ろから上半身を斜めに支えるように抱える。「あ−、楽だ」と、Aさんは婦長の肩に頭をもたれ、深い息を吐いた。
婦長の脳裏に、マリアが命絶えたイエスを抱えるミケランジェロのピエタ像がよぎる。あたたかい人に体を委ねる心地よさは、母の愛に抱かれる安心そのものではないか。
婦長は、長年携わってきた看護という仕事の真髄に触れたようで、全身に電気が走った。ちょうどそこへ入ってきたHは、遠くの桜に目をやっているAさんが、隅田川に思いを馳せていると思った。
「先生、今から行って来ます」今日は、隅田川で恒例の早稲田と慶膳のレガッタが行われる。両校の応援にOBたちが集まり、桜橋の辺りはさながらお祭りのような賑やかさを呈する。

まして今年は花見の時期と重なって、河岸は見物の人々で鈴なりとなった。毎年Aさんと車を飛ばし一緒に早慶レガッタを観戦して、母校がめでたく勝てば浅草辺りで祝杯を上げ、負けた帰りはお通夜のように寡黙に相模原方面に帰るのが常であったし、去年もそうした。
今年はHがひとりで隅田川へ車で向かう。午後三時には、メインの競技である対抗エイトがスタートする。
不思議にHの胸がさわぐ。両校の艇は近年稀な、抜きつ抜かれつの激戦であった。
桜吹雪に迎えられゴールに入った時、わずか五センチという差で、慶膳が早稲田に勝った。ちょうどそれと時を同じくして、Aさんが人生レースにロウァウトした。
ロウアウトとは、漕いで漕いで、漕ぎきって、ゴールインした後の状態をいう。後になって慶腫のボート関係者は、真顔で「あの最後の五センチはAが漕いだ」と、語り伝える。
三十余年前、一九六七年の十二月。ドイツ留学を終えたHは、私とふたりの子供を連れて帰国した。
久方ぶりの家族との再会に胸を高鳴らせ、タラップを降りる。Hの母も、私の両親も、二年の時の流れを感じさせないほど元気であったが、父の面差しが鶏っていると、Hは気にした。
「心臓に悪いから太らないように気をつけてんだ」と言うのを呑承込象、慌しくその年は暮れた。たった二年の留守ではあったが、母国での暮や正月の行事がやたらに懐かしく、おせち作りにも精が出た。

Iはこの家に嫁いだ私の手作りを以前から声」とのほか好んでくれ、この時も卵焼きや筑前煮に雑煮、ローストビーフまで、健咲ぶりを発揮した。

下肢静脈瘤治療を検索するなら此方のサイトです。
知って得する下肢静脈瘤の情報はココで集まります。
下肢静脈瘤にはこちらのサイトが最適です。

下肢静脈瘤 病院の情報を知りたいと言う願いにお答えするサイトです。
話題の情報から過去の情報まで、納得の下肢静脈瘤 病院に関する情報量です。
多くの下肢静脈瘤 病院をみてきたスタッフだから言える、本当に利用者が満足する下肢静脈瘤 病院の解説です。

下肢静脈瘤 治療について詳しく知りたいならこちらのサイトがお勧めです。
下肢静脈瘤 治療を初めて利用する方へ知っておいて欲しい基礎知識やオススメ情報をお教えます 。
下肢静脈瘤 治療を調べるならこのサイトです。

下肢静脈瘤 手術の情報がてんこ盛りのサイトです。
高い技術とアフターケアで多くの人に愛される下肢静脈瘤 手術のお店を紹介します。
気になる下肢静脈瘤 手術のことならこちらをご活用ください。